こんにちは。ミニマリストねこです。
昨日深夜の地震には、驚きました。みなさまお怪我など、なかったでしょうか?
関東に暮らす私の家もかなり長い間揺れていて、こんなに大きな地震は愛猫にとっては初めてだったこともあり、かなり怖がっていました。
災害は急ですから、こういうことがあると備えは必要だなと改めて感じますね。私はまだまだ不十分なところがあるので、見直したいなと思い直しました。
今は昨日のこともすっかり忘れて、日向ぼっこしながら夢うつつ・・・な愛猫です(笑)
さて、昨日のブログに、「今は外に出ることが怖いという自分の気持ちに正直に、家に引きこもっていようと思う」と書きました。
そう書いたものの、そのあとも何だか気になっていて、自分の気持ちに正直にという言葉で自分の行動を正当化しようとしているのではないか??という疑問が自分の中にわき上がってきました。
自分の行動を正当化したり、開き直ること、言い訳をすること、屁理屈をこねることと、ありのままでいることや自己主張すること。何が違うんだろう?と。
そもそも人は何かの行動をしたり選択するときには、その選択が「正しい」と感じていないと選択しないものですよね。(それがあとになって間違いだったと気づくことはあっても、選択の時点では正しいと信じている。)
また、人は認知(考えと行動)が矛盾した状態を不快だと感じる性質があるそうで(認知的不協和)。その不快感を解消する方法として、行動を変えるのではなく、考えを変えることで自分を正当化しようとすることがあるそうです。
例えとして、よく挙げられるのが「タバコ」の例。
タバコを吸っている人が「タバコはガンになるリスクを高める」という意見を耳にしたときに、自分はタバコを吸っているという行動とガンになるリスクが高まるという意見が矛盾してしまいます。
そのときにタバコをやめるという行動に出るのではなく、「タバコを吸っていても長生きする人もいる」とか「交通事故で死亡する確率の方が高い」とか、考え方を変えることで矛盾を解消しようとすることをいうそうです。
そう考えると自分を正当化することは、認知的不協和を解消とする人間の自然な心の動きのようにも思います。
それに加えて私の場合は、人から否定されたり批判されたりすることが怖いから、「自分の行動には理由がある」「私にとっては正しいことなのだ」と思って、安心したいというところがあるような気がします。
「間違ってはいけない」「失敗してはいけない」と考えがちなところも。(間違いも失敗も気づいたら直せば良い、間違った行動をすることと存在が否定されることは別のことだと、頭ではわかっているつもりなんですけどね。)
そう考えると自分のあらゆる考え方が認知的不協和を解消したくて、自分を正当化しているのではないか、その理由として自分の気持ちに正直になるということを利用しているのではないか・・・という気がしてきます。
それともこうやって、私は自己を正当化しているのだろうか?と考えること自体が、常識や社会・周りの意見を気にしていることなのでしょうか?
結局自分を正当化しているかどうかって、常識や周りの意見との比較から生まれてくるもののような気もします。そして常識や世間の意見・価値観は時代や状況によって変わるもの。
だとすると、自分を正当化しているのか、自己主張しているだけなのか、その境目はとても曖昧であやふやなものなのかもしれません。
考えれば考えるほど、わからなくなりました・・・
実際、生きていく上で、自分は正しいと自分の選択や存在を自分で認めることは必要なことだと思います。
一方で、ときには自分の間違いや行動を修正しないといけない場面もあって、他の考え方はないかを考えてみたり、間違うことは悪いことではないんだと考えることも、私には必要なことのような気がします。
自分の意見を言うということと、自分を正当化すること。どう違うのでしょうね。
ブログを書いていたら考えがまとまるかなと思っていましたが、結局わからないまま、答えが出ないまま・・・になってしまいました。
生きていくことは私にとって、わからないことだらけです。
でもまだいろんなことについて、世間がどうかじゃなくて、自分にとっての意味を考えると決めたばかり。わからないという気持ちに正直に、わからなくても考えることをやめたくないなって思います。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。