こんにちは。ミニマリストのねこです。
最近読書量が増えました。今回読んだのは角田光代さんの「坂の途中の家」。
文庫で500ページ近くある大作なのですが、映画にもなる人気作なだけあって引き込まれて一気に読み終えてしまいました。
角田さんの本を読んでいたのは主に20代の頃で、その頃に発売していた本は全部読んだんじゃないかなというくらい好きな作家さんです。
文章が私のリズムに合うのか読みやすく、読むというよりは、すーっと流れるように息を吸うように自然に身体に染み込んでくるような感じがします。
物語は主人公の里沙子が補充裁判員に選ばれたことから始まります。裁判の被告人は娘を虐待して殺害したとして起訴され殺人罪に問われている女性です。
自らも娘の子育てに苦戦していたり、実家の母とわだかまりがあったり、夫との信頼関係にも不安を感じていたり。そんな状況が似ていると感じた主人公は、被告人と自分を重ね合わせていきます。
それと同時に娘へのイラ立ちや夫への違和感を募らせ、現在の家庭や自分について振り返っていく物語です。
私は子供がいるわけではないし結婚すらしていないのですが、思い通りにいかない娘やわかってもらえない夫にイライラしたり。
主人公や被告人にすっかり感情移入して読みました。
この小説はずっと重くて苦しいです。育児の大変さや久しぶりに社会に出て責任を果たす重圧。母子関係、夫との関係、義家族との関係・・・
主人公に自分を重ね合わせた私からすると、どうしてわかってもらえないんだろうと、ずっと苦しくて緊張の糸が張りつめたような気持ちでした。
最後にやっと、主人公は母親や夫に対する違和感の正体に気づきます。
憎しみではない、愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから。それがあの母親の、娘の愛し方だった。
主人公はずっと母親は自分を否定しているのだと愛されていないのだと思ってきたのですが、そうではなかったのだと気づくんです。
母親が自分を否定していたのは自分を愛していなかったからではなく、愛していたからこそ離れていってしまうのが怖くて自分より弱い存在でいて欲しかったからなのだと。これが母の愛し方だったのだと。
それは夫も同じで、相手を貶めることで自分につなぎとめるような愛し方しか知らなかったんです。
そう考えるとこの小説に出てくる主人公の実母も夫も義母も、被告人も被告人の夫も被告人の義母も、みんな愛し方が歪んでいる。もしかして歪んでいない愛なんて、ないのかもしれません。
そしてクライマックス、最終的な判決を決める場面。主人公は被告人に肩入れし過ぎていた自分に気づき、今までしてきたように穏便に周りに意見を合わせてやり過ごそうとするのですが・・・自分の本心に気づきます。
本来いるべき場所におらず、考えることも、決めることも放棄して、気楽さと不安さを覚えながら動こうとしない、このなじみ深い感覚、これは、学生のときに授業をサボったときのものではない。もっともっと幼いころから自分がやってきたものだ。何が窮屈なのか考えることをせずに、ただ母のよろこびそうな話題だけ口にし続けていた。窮屈さの原因が何か考えず、ただひたすらに逃げた。考えることからもまた、逃げた。
そこから抜け出したとばかり思っていた。でも結果的にはどうだっただろう。今いるところは、なじみ深い場所ではないか。
この文章を読んだとき、頭をがつんと殴られたような衝撃を感じました・・・自分も同じだ、と思ったからです。
私も主人公と同じように考えることから逃げてきたのだと気づかされました。
人は母親との間で身に着けた人との関わり方を、そのまま他の人との人間関係にも当てはめて行動してしまう、と聞いたことがあります。
主人公は自分でも気づかない間に夫とも母親との関係と同じように関わっていたんです。夫に対しても、違和感を無視して考えること関わることから逃げていたと気づきます。
そう気づいた主人公は自分の本音から逃げずに勇気を出して、被告人に寄り添った発言をしますが、やっぱりそんな主人公の訴えは他の裁判員の誰にも理解してはもらえないんですよね。(わかってもらえなすぎて、もどかしい。)
自分が気づいたからって、周りの世界を変えることはできない。でも1番伝えたい1人、被告人には伝わっていたような気がします。
この小説は主人公の一方的な主観で書かれていて、事実を捻じ曲げて解釈する捻ねくれた女の戯言だと感じる方も中にはいらっしゃると思います。
それはきっとそうで、同じ出来事でも人によって解釈の仕方が違うのは当然のこと。夫から見たら、娘から見たら、義母から見たら、全く違う物語が浮かんでくるのだろうと思います。
それでも敢えて夫や娘からの視点を入れずに主人公の主観的に、母であり妻であり娘である女性、母の呪縛から逃れられず育児もうまくいかない女性の立場に立って、知って欲しい感情があったのだと私は感じました。
考え方が歪んでいたとしても、その人が感じて抱えて悩んでいる感情であることに間違いはなく、本人にとってはその主観こそが紛れもない真実なんだと思います。
最後に主人公は自分で考え自分で選択する人生の1歩を踏み出した。そのことに光を感じましたし、安堵する気持ちもありました。
その一方でなかなか変われない、悩み続けている私にとっては眩しすぎる気もしましたね。でもそれで良かったと思います。
角田光代さんの本の中では、八日目の蝉が1番好きかな。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。